そこに何が

先日、明石のoctet.さんからお迎えしたおサルさん。
見る角度によって笑っているようにも見えるし、悲しげにも見える。良い顔です。
右手には穴が空いています。元々は何か持っていたんでしょう。
この状態で僕のところに来てくれたのだから、これが完成形。


というようなことを考えていると、昔、高校の教科書に載っていた「ミロのヴィーナス」という評論文を思い出しました。
トルソーの状態で見つかったミロのヴィーナス像の美しさを讃えた評論文。
教科書の内容、年ごとに内容に違いはあると思いますが、公立と私立で教科書が変わったりするんでしょうか。
でも、この評論文は非常に有名な定番だと思います。


確か内容は、
"ミロのヴィーナスは両腕が無いからこそ美しいのである。両腕があるミロのヴィーナスなど想像もできないし、それがどんなに美しい腕であってもグロテスクなものにしか思えない。ミロのヴィーナスは発掘される前に自身の両腕を意図的に隠したのではないかと思うほど美しい"
というようなものだったと記憶しています。


屁理屈だなと思いながら読んでいました。
テストで「このときの筆者の気持ちを述べなさい」なんて問題が出ても、知るかっつーの。

ここまで言うのなら、たとえばミロのヴィーナスに両腕がある状態で発掘されたとしても、
「いや、これは腕が無い方が美しい!」
と言えるんでしょうかね。筆者は。
非常にイライラする屁理屈だと、17とか18の頃の僕は思いましたし、このイライラは今でも変わらない。

両腕を失った状態のミロのヴィーナスが美しいというのは分かりますが、その状態で発掘された以上、「たられば」で美を語るのは卑怯だと思う。
「俺は美というものを理解している人間だ」とでも言わんばかりの、筆者の鼻持ちならない態度が嫌。

高校生の頃と違って、自分と考えや感性が異なる事柄についても、ある程度「ああ、そういう考えもあるよね」と受容できるようにはなってきましたが、未だにこの評論文は飲み込めません。
言っていることも言いたいことも分かりますが、同調だけはするものか。


で、このおサルさん。
やっぱり何を持っていたのかは気になりますし、想像するのは楽しい。何かを持たせてみてもいいかもしれない。
ペンを挿すと、案外しっくり。
さすがにペン立てではないとは思いますが。

タテイト珈琲店

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