foujita
藤田嗣治、またはレオナール・フジタ。
ちょうど、京都国立近代美術館で没後50年記念展が始まったそうですね。
電車通勤だと、吊り広告などで「どこそこの美術館で◯◯展が始まる」といった情報はイヤでも入ってくるのですが、自転車通勤ではそうもいかない。
なんとなく、「フジタのことでも書くかー」と思い、調べて初めて記念展が始まっていることを知りました。いやはや。
藤田嗣治の代名詞といえば、「乳白色」。
淡く仄かな甘味すら感じそうな、独特の風合い。
この色の出し方、本人は生涯口に出さなかったそうですが、今では解明されているようです。
何やら、いくつか薬品を混ぜて化学反応を起こして生成した色なのだとか。
学校の美術の授業かスケッチブックに落書きするくらいでしか絵を描いたことのない僕にとって、色を作るというのはせいぜいいくつかの絵の具を混ぜる程度。
でも、画家はあの手この手で自分の出したい色の作り方を探求するのだと、知り合いから聞きました。
目的があって、手段がある。
乳白色を出すことが目的だとすれば、一般的な画材に拘らずに薬品を混ぜることは手段。
もっとも、藤田にとって最大の目的は作品を完成させることなのだから、乳白色の生成もその手段の一つに過ぎないのですが。
僕がコーヒーを淹れるときの考え方も、近いものがあるのかもしれません。
「こういうコーヒーを飲みたいor飲んで欲しい」というゴールがあって、そのためにドリップを工夫するのであって、逆ではないよなぁと思うのです。
時々、「お湯の温度は」「何秒蒸らせばよいか」「ドリッパーは何が良いか」といったことを訊かれることがあります。
乱暴な言い方をすれば、「どうでもいい」と思っています。ただの手段ですから。
「こんなコーヒーを淹れたいのだけどどうすればよいか」というご質問ならば何らかの回答はできそうですが、
「お湯を注ぐスピードはどうすればいいですか」と訊かれても「知らんがな」としか言いようがないのです。
自分なりのトライ&エラーの繰り返し。
僕もまだ駆け出しの身。日々勉強です。
マニュアルや目安は当然ありますが、決まりではない。それよりもその日の豆の状態と会話することの方が大切。僕にとっては。
コーヒーを淹れる際のアドバイスを、まだまだ駆け出しの僕が僭越ながら送るのであれば、「手段を目的化しない」という一言だけかなと思います。
ゴールの味を考えずに積み上げた結果、たまたま美味しいコーヒーが出来たというのも、偶然の出会いのようで素敵なんですが、お店となるとそうもいきません。
ご家庭ならば、それも一つの楽しみ方だとは思います。
目的や手段ということをもっと飛躍させると、コーヒーを淹れることすらも僕にとっては生きていくための手段なんでしょうね。
さらに飛躍させると「生きる目的とは」みたいな話になりそうなのでこのあたりでやめておきます。
なんだか上手く文章に出来ません。
ということは、僕は未熟なんだと思います。
伸びしろ伸びしろ。
ああ、藤田嗣治の話でしたね。良い絵だと思います。本当に。
藤田嗣治、もう一度映画化して欲しいです。
是非、イッセー尾形主演で。
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